年度

音楽部門の歴史

1948年
(昭和23年)度

子供のための音楽教室、東京家政学院内に開設 (10月)

1949年
(昭和24年)度

1950年
(昭和25年)度

子供のための音楽教室にオーケストラ誕生

1951年
(昭和26年)度

  • 桐朋女子高等学校に音楽科併設の件、理事会で可決  (11月)
  • 子供のための音楽教室第1回発表会(YWCA) (11月5日)
  • 桐朋女子高等学校音楽科の男女共学、理事会で承認 (1月)

戦後の復興がようやく始まろうとしていた頃、音楽の新しい教育を目標として何人かの音楽家がつどった。彼らの共通の関心は、音楽の早期教育であった。子供のもつ柔軟で無限の創造力を伸ばすことこそが新しい教育であるとの信念のもとに、終戦の年の秋、チェロ奏者で指揮者の斎藤秀雄と指揮者の渡邉暁雄はオーケストラ教室を始めた。彼らの教育思想に共鳴して、鈴木乃婦子、ピアニストで斎藤とは室内楽を行っていた井口基成、声楽家の伊藤武雄、音楽評論家の吉田秀和、作曲家の柴田南雄らによって、1948年、「子供のための音楽教室」が開設された。さらに音楽評論家として活動を開始していた遠山一行も斎藤らのこの理念に共感し、スタッフとして教育に加わることになった。

音楽教室第1回修了生謝恩会(1952年3月31日:東京家政学院食堂)

子供のための音楽教室の開設

「子供のための音楽教室」の開設に先立ち、斎藤秀雄、吉田秀和、柴田南雄、それに東京家政学院側からは鈴木乃婦子が実務の中心となり、開設準備が行われた。井口基成はピアノ教師を集め、生徒募集のちらしを配るなどの仕事を担当して、開設にこぎつけた。

 「子供のための音楽教室」の初期の生徒は約30名で、その顔ぶれは、松田洋子、伊藤叔、江戸京子、江戸純子、江戸涼子、稲村久仁子、本荘玲子、中村紘子など教員や関係者の子弟のほか、この教育に賛同した親たちがその子供たちを通わせた。

 レッスンは毎週土曜日、市ヶ谷にある東京家政学院の校舎の2階および3階の教室で行われ、各教室にはアップライト・ピアノが、講堂にはグランド・ピアノが置かれていた。井口基成は3ヶ月に1回、ピアノの弾き合いを行い、その折にはピアノの教師と生徒の全員が参加するきまりであった。また、クリスマス・コンサートでは自分の専門以外の楽器で演奏することもあり、生徒たちは幅広い音楽に接することができた。

 東京家政学院の入口近くの小さな応接室が事務室として使われ、職員の田代泰子が週4日勤務し、教材のガリ版刷りやパート譜の作成などの仕事も担当して、家政学院の事務員が経理を手伝うなどした。その後、音楽教室生の保護者でもある江戸英雄が、経理事務のノウハウを教えるために、会社の担当者を紹介するなどの労をとった。

 月謝で何とか運営を賄うことができたが、教職員の教育に対する熱意と保護者の協力によって成り立っていた部分も多く、黒板に五線を引く作業は保護者が分担して行うなど、PTAの協力は桐朋学園音楽部門の教育の特徴ともなった。初代のPTA会長は岩熊来志郎で、その後は江戸英雄が引き継いだ。

子供のための音楽教室」の開設趣意書


私たちの立場

「子供のための音楽教室」の運営につきまして、私たちはこう考えている次第です。
今まで私どもの国の音楽教育には、ふたつの大きな欠点がありました。

(1) 教育を受けるのがおそすぎる。

(2) 音楽の知識を習うことが軽視されるか、さもなければ抽象的にだけおこなわれた。 

 音楽の教育は、幼いとき時からはじめればはじめるほど、楽に、確実に、高いところまで進歩できるということは、古今の名音楽家といわれるような人が、ほとんど例外なくそうした経験をふんできたことをみても明らかな事実です。
 しかし、ただ早くはじめたというだけではたりません。音楽では、文学などにくらべて技術的な要素が、非常に重要な役割をもつと同時に、知的な面の勉強も、あくまで耳の感覚を通して得られた、具体的な、身についたものでなくてはなりません。ところが、今までは、子供に音楽を教えるための総合的な施設がなかったため、音楽を学ぶものが、とかく晩学のかたむきがありましたし、特に楽典その他の理論や音楽史などの知識は、ただ本から頭につめこむだけというありさまでした。
 これではたとえ、楽器を機械的にひきまくる人はできても、高い音楽的思考力をもった音楽家の出現は期待できないわけです。

一、なるべく小さい時から、正規の教育をはじめる。

二、聴音教育をおこなって正しい音感(旋律やハーモニーやリズムを正確にきき分けつかみとる力と、音楽、つまり本当に音楽的な音とは何かについての感性)を育てる。

三、以上と平行して、順をおって理論や知識を組織的に教える。

四、演奏のさまざまなスタイルを区別し、各生徒が自分に本当にぴったりしたスタイルで音楽する力をつける。

五、個人演奏だけでなく、合唱、合奏の訓練をする。

 このために、私たちは、児童の教育に十分な経験をもった良心ある音楽家を教師に依嘱しました。私たちはこのほか、必要に応じ、特別講座を開き、生徒向けのものばかりでなく、父母の方々や、一般の成人のための音楽講座を開設したいと思っております。音楽教育ばかりでなく、広く日本文化の前進に深い関心をもっていらっしゃる方々の力強い御協力と御支援とを心からお願い致します。

昭和23年9月
子供のための音楽教室
吉田秀和  井口基成  斎藤秀雄  伊藤武雄  柴田南雄

オーケストラ教育の始まり

 「子供のための音楽教室」開設の翌々年、オーケストラの教育が始まった。そのきっかけは、クリスマス会でオーケストラを試みたことにあったと思われるが、なにより斎藤秀雄がアンサンブル教育の必要性を強く感じ、熱意を持っていたことにある。ここに、楽器実技の指導だけではなく、ソルフェージュ教育とアンサンブル教育が一体となった桐朋学園の独特な音楽教育の原点を見ることができる。

桐朋学園への歩み

「子供のための音楽教室」の教育は、斎藤や井口の予想した以上の成果を生み出した。子供たちが高等学校に就学する年齢に達すると、一貫した教育システムとしての高等学校課程の設置が構想された。そこで「音楽教室」でピアノの教育を担当していて、かつ父兄でもあった江戸弘子を介して、その夫の江戸英雄が検討に加わることになった。江戸英雄は、水戸高校の同級生で、当時東京教育大学長の職にあった柴沼直に相談した結果、柴沼が理事長を兼任していた私立桐朋学園が、高等学校の受け入れ先として浮上することになる。
 1951年8月、吉田秀和、柴田南雄、井口基成らが桐朋学園を訪問し、桐朋女子高等学校の校長、主事らに音楽科併設の希望を述べ、この件が検討されるようになった。
 検討にあたって、女子校に男女共学の教育機関が併設されることや、音楽学校としての運営の見通し等について、乗り越えるべき様々な課題に直面した。しかし、斎藤秀雄をはじめとする音楽の教員の熱意と、柴沼直理事長、木代修一校長の尽力、そして女子校教職員の理解を得て、開設が実現することになる。
 戦後に再出発をしたばかりの桐朋学園にとって、さらに音楽科を併設することは、大きな決断であった。